長野県土地家屋調査士会

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みんなを守る三角点 須坂基線

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地図を作るためには三角点網が必要であり、三角点網を作る基礎には基線があり、その基線が須坂市・高山村にある。

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大日本帝国軍 陸地測量部は、明治15年から大正にかけて相模(神奈川県)、三方原(静岡県)、饗庭野(滋賀県)、西林村(徳島県)、天神野(鳥取県)、久留米(福岡県)、笠野原(鹿児島県)、塩野原(山形県)、須坂(長野県)、鶴見平(青森県)、札幌(北海道)、薫別(北海道)、声問(北海道)、沖縄(沖縄県)、択捉(千島)他に台湾、樺太に5カ所設けたようである。各基線で天測により経度緯度を測量し各基線を繋げ平均計算をしたと思わる。

用 語

明治25年測量技師館清彦氏の選点図では、槍ヶ岳、蓮華岳とあるが、明治27年の選点図は代わりに、白馬岳、穂高岳となっている選点図は琵琶湖の北まで描かれている。おおよその日本の地形は分かっていたと思われる。なぜ上高井の地に基線が設置されたのだろうか?

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三角測量法式草案によると

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石ががらがらした土地が良いとされている、田は不向きであるとされている。石ががらがらしており筆界には内畦畔と同じ様に石を積んだヤツクラと言う土地が公図に記載されている。この様な土地はリンゴ、ブドウの最適地で長野でも有名な果物の産地である。東端は、これ以上東になると、鎌田山がかかってしまう。西端はこれ以上西に行く地千曲川の砂地になってしまう。そして北には、雁田山、南は井上山と次は猫岳、髻山と三角点には好条件だと分かる。東端の点の記を個人情報の部分を除き掲載する。覘標9m突40とある。西端机板の高さ5m、東端4.5m要するとありからかなり大きな櫓を想定していたと思われる。御影石の石標は30年前は角があったようである。栗畑で西端より東端に至迄32本の通線杭置く・・・と当時を窺わせる記載がある。

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